ツイ廃理系学生独り言

理系を極めるには興味が文系に偏りすぎていて、文系を極めるには未熟な駄目大学生

日本語はアインシュタインを殺せるか (前半)

お前線形代数学の記事の後にこれを書くのかよっていうツッコミは置いといて。

※この文ではサピアウォーフ仮説について、肯定的な見方から書いております。客観的観測に基づいた文ではなく、あくまで私個人の主張であるということを念頭に置いて読んでくださると嬉しいです。

これは伊藤計劃氏の小説に出てくるような「言葉には人を殺すことの出来る力がある」とか、そういうものではなく(別の記事でそれについても考えてみたいけど)「言葉と思考」についてのお話。


言語相対論/言語決定論って言うもの知ってますか?
すごく簡単に言うと、「思考は言語によって規定されるんじゃないか」という考え方です。
よく用いられる色彩の例で言うと、他言語よりも多くの色の表現をもつ日本人は、他言語話者と比べ色彩に関する思考の仕方、認識の仕方が変わるのではないか、ということ。


ここで理系の端くれ(一応)として、色の違いを単に網膜が捉える波長の違いとして見てみると、この考え方には疑問点があります。
「言語によって定義されていなくとも、脳に送られる刺激としては確かにその色彩の波長が送られているではないか」ということです。
実際に、言語決定論に対する否定意見としてはしばしばこの考えが挙げられます。


確かに、刺激は伝えられています。しかしこれは単に刺激が伝わるプロセスに対する議論であり、「知覚」に関しても同じことが言えるとは限らないのではないかと、私は考えます。


人間の脳は、外界からの刺激情報を“シカト”する能力(?)をもっています。
例えば買い物途中、スーパーで流れるBGM。思い出してみてください。今朝行ったスーパーで流れていたBGMは何でしたか?
自分の好きな歌手の曲、興味のあるジャンルの曲が流れていたり、よほど買い物が暇だった人はさておいて、大体の人はどんな曲が流れていたかを覚えていないでしょうし、そもそもスーパーにいる段階でも認識していないでしょう。


さらに、自分の家の匂いはどうでしょうか。友達の家に行けば、いかにも『その友達』〜な匂いがするのに、自分の家に帰った時に、「俺/私の匂いだ」という風にはなりません。これは、嗅ぎなれた匂いに対して、脳が無反応になるという脳の適応なのですが、この適応が起こっていても、鼻はしっかりと『自分の匂いの刺激』を受け取っているはずなのです。


このように、人間の脳というものは『自分が意識した刺激、認識しなければいけない刺激』以外のものを案外簡単にスルーしてしまうものなのです。


もしそうであったなら、刺激の違いはあれど、無視されてしまう色というのも存在すると考えてもおかしくは無いでしょう。
黄色と山吹色は違う色か。『山吹色』という言語的な枠組みのないところでは、波長は違えど並べて比較でもしない限り全く同じ『黄色』と認識される可能性は大いにありますし、もし違いが分かってもその刺激を言語にして表現する際に『山吹色』の要素は取り除かれ、せいぜい「暗い」「明るい」程度の違いが残るのみでしょう。

と、言うわけで用いる言語が違えば、着眼点や表現の仕方が大きく変わると私は考えるのです。


さて、タイトルに登場した「アインシュタイン」は1度も現れませんでしたが、今回の記事はこの当たりで。

後半につづく。