ツイ廃理系学生独り言

理系を極めるには興味が文系に偏りすぎていて、文系を極めるには未熟な駄目大学生

帰ってきたツイハイ

おらは死んじまっただー
おらは死んじまっただー
おらは死んじまっただー 天国にいっただー


帰って来ました。
決して帰ってこようと思って帰ってきたわけではありません。少々思うことがあって読んだ本に関して記録するブログを始めようと思ったのです。そこで、伊藤計劃先生がはてなダイアリーに記事を書かれていたのを思い出し、どうせならはてなで書こうと思ったところ、覚えてもいないアカウントが存在したわけです。3記事のみ。(そのうち1記事は理系科目についての内容だったのですが、あまりに間違いが多かったので見かねて消しました)継続期間2週間。いやはや継続期間2週間というところがあまりに自分の無節操さをよくあらわしているようで。今度こそそうはならないようにしていきたいところです。

ブログ名は変えません。2年そこら経ったはずなのに中身がほとんど変わりませんから。一番最初の記事「日本語はアインシュタインを殺せるか (前半)」の後編は書きません。書こうとした内容を覚えてませんから。そんなことより自分の過去の記事のタイトルが狙いすぎていて恥ずかしいです。コピペするとき涙目でした。

おそらく今から書き出す記事も、後で読み返せば恥ずかしいものに仕上がっているのでしょう。いつまで続くかわかりませんが、10年後の私は同じように、アカウント作成しようとし、すでに開設済みのこのブログを見つけ、涙目で過去記事をコピペするのでしょう。そう考えると、ブログを再開したくなくなってきました。やめようかな。

ツイ廃、ダークソウルⅡにハマる

知的な記事?知るかそんなもん

というわけで(どういうわけだ)今日は本当にどうでもよい内容。
内容が無いよう・・・はい。

見出しの通りわたくし、ダークソウルⅡにはまってしまいました。
いやあ、サントラ付きで500円(ブックオフ)のクオリティーじゃねーな

何といっても

あの鬼畜な難易度

決して敵が恐ろしく強いとかじゃない(ほかのゲームに比べれば十分強い)んだけれども敵の配置とかそういった点でねちねち攻めてくる。

死角に敵。宝箱の裏に敵。がれきの陰に敵。上から敵。後ろから敵。死体だと思ってたら敵。人と話していたらどこからともなく敵。

敵の配置決めた人の顔が見たいや

絶対性格悪そうな顔してるぞ。

あともう一つ。

説明が恐ろしく少ない。


一つ悲劇をご紹介。
最初の町で防具屋さん発見。買い物終わりに間違って切り付けると

HPバーが減った!!!

え、なにこれたおせんの??
ということで切り続ける。しばらくすると防具屋さん反撃開始。これが結構強い。

強い→すごい報酬

の流れだろう。そう思って期待アップ。3度の死を経て

防具屋さんを殺害

防具屋さん、以後復活せず

まずいまずい、ロードロード・・・ロードがない!!(しかもオートセーブ)

『ダクソ2 NPC 殺害』で検索

検索トップ

『取り返しのつかない要素』

・・・・・・・・・・・・oh……

ということで
半強制的「序盤 防具購入なし縛り」
けってーい

説明がない→何かやらかす→こまめなオートセーブ(吐血)で戻れない!

のパターンが多い!!

これはなんでも教えて貰えると思っている我々への教訓なのか……?(多分違う)


しかしそんなこんな書き連ねているが、何故か全てのミス(大概は死)にイライラは感じない。

敵の配置も説明のなさも、すべてが想像の範囲外から襲ってくるので

『ほげぇ・・・そう来たかぁ・・・』

で済ませられてしまう。

これは久々に長く遊べるゲームかもしれないぞ?

書いてる途中で疲れてきたせいで締め方がすごく雑だが今日はこの辺で。
ダクソ記事はたぶん続くぞ。アインシュタインの続きもちゃんと書くぞ。お楽しみに(?)

日本語はアインシュタインを殺せるか (前半)

お前線形代数学の記事の後にこれを書くのかよっていうツッコミは置いといて。

※この文ではサピアウォーフ仮説について、肯定的な見方から書いております。客観的観測に基づいた文ではなく、あくまで私個人の主張であるということを念頭に置いて読んでくださると嬉しいです。

これは伊藤計劃氏の小説に出てくるような「言葉には人を殺すことの出来る力がある」とか、そういうものではなく(別の記事でそれについても考えてみたいけど)「言葉と思考」についてのお話。


言語相対論/言語決定論って言うもの知ってますか?
すごく簡単に言うと、「思考は言語によって規定されるんじゃないか」という考え方です。
よく用いられる色彩の例で言うと、他言語よりも多くの色の表現をもつ日本人は、他言語話者と比べ色彩に関する思考の仕方、認識の仕方が変わるのではないか、ということ。


ここで理系の端くれ(一応)として、色の違いを単に網膜が捉える波長の違いとして見てみると、この考え方には疑問点があります。
「言語によって定義されていなくとも、脳に送られる刺激としては確かにその色彩の波長が送られているではないか」ということです。
実際に、言語決定論に対する否定意見としてはしばしばこの考えが挙げられます。


確かに、刺激は伝えられています。しかしこれは単に刺激が伝わるプロセスに対する議論であり、「知覚」に関しても同じことが言えるとは限らないのではないかと、私は考えます。


人間の脳は、外界からの刺激情報を“シカト”する能力(?)をもっています。
例えば買い物途中、スーパーで流れるBGM。思い出してみてください。今朝行ったスーパーで流れていたBGMは何でしたか?
自分の好きな歌手の曲、興味のあるジャンルの曲が流れていたり、よほど買い物が暇だった人はさておいて、大体の人はどんな曲が流れていたかを覚えていないでしょうし、そもそもスーパーにいる段階でも認識していないでしょう。


さらに、自分の家の匂いはどうでしょうか。友達の家に行けば、いかにも『その友達』〜な匂いがするのに、自分の家に帰った時に、「俺/私の匂いだ」という風にはなりません。これは、嗅ぎなれた匂いに対して、脳が無反応になるという脳の適応なのですが、この適応が起こっていても、鼻はしっかりと『自分の匂いの刺激』を受け取っているはずなのです。


このように、人間の脳というものは『自分が意識した刺激、認識しなければいけない刺激』以外のものを案外簡単にスルーしてしまうものなのです。


もしそうであったなら、刺激の違いはあれど、無視されてしまう色というのも存在すると考えてもおかしくは無いでしょう。
黄色と山吹色は違う色か。『山吹色』という言語的な枠組みのないところでは、波長は違えど並べて比較でもしない限り全く同じ『黄色』と認識される可能性は大いにありますし、もし違いが分かってもその刺激を言語にして表現する際に『山吹色』の要素は取り除かれ、せいぜい「暗い」「明るい」程度の違いが残るのみでしょう。

と、言うわけで用いる言語が違えば、着眼点や表現の仕方が大きく変わると私は考えるのです。


さて、タイトルに登場した「アインシュタイン」は1度も現れませんでしたが、今回の記事はこの当たりで。

後半につづく。